シェリー・ケーガン氏の「「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義 日本縮約版」を薦められて聴きましたが…、
途中で聴くのをやめてしまいました。

まずは、自身の記憶の仕方のせいか、過去に自分が生きていた、という事を感覚的には確かに思っておらず、未来にも自分が生きている、死んでいる、どちらもイメージできないのです。

記憶内の出来事に自分がいない、のですよね。

例えば、以前、車で迷い込んだ町で、この先には、何と何がある、次の四辻を左に曲がると何がある、等々、街の様子は知っている、でも、「自分が」いつ、何をしに、ここに来たのかが、全く思い出せないのです。

(この時、同乗者に、その事を語り、半ば文章化した為、このエピソードは覚えています。
 でも、この後、何度このエピソードの事を考えても、「自分が」が思い出せないのです。)

夢でも、目覚めて覚えていた夢では、何かの出来事を、誰かの目を通して、もしくは、空中からとかの視線で見られたものを観ている、という映画とかのような思い出し方をします。

恐怖なりを感じても、実感している、というより、映画にのめり込んで、という感じ。

香りやメロディで昔の事を思い出す、という話はよく聞くのですが、私には経験がないのです。

そういう理由で、なのかもしれませんが、連想して記憶、が全く苦手で、語呂合せなんかも、無茶苦茶容量が小さいです。

物事の物、が覚えれない、でも事は大丈夫、だから、証明の仕方は身体が覚えているから、証明の結果=定理は覚えれなくても大丈夫、みたいな感じで、覚える事を放棄していた事もありました。

こうした自らの生きている記憶に関する感覚の他にも、

東洋思想的な何かで、私は時々刻々と死んでいるのだ、そして、毎時毎秒輪廻しているのだ、という考え方もしています。

また、自分の人格が固定されている筈がないとも思っていて、

著者とは、何か根本的に依って立つ所が全く違っているようで、聴き続けるのが辛かったのです。